岡村国和先生を偲んで

「今日は本当に楽しかったです。ありがとう。」・・・宴席後、珍しく私の携帯に届いた岡村先生からのメール。2019年4月17日、特別研究休暇に入られた岡村先生を囲んで、新宿東口に私を含め数名の教員が集まった。いつものように話し、食べ、呑んだに過ぎなかったが、その時の先生はことのほか嬉しそうであった。もちろん、研究休暇に入られてしばらく同僚の顔を見ていなかったためもあろう。ただ、宴席後に届いたメールは私を何かいつもと違う気持ちにさせた。しかし、それが先生と私の最後の宴席となり、まさか2年後に訃報を聞くことになろうとは・・・。高円寺駅から雨の舗道を足早に辿り、安置所で先生のご遺体と対面した時、在りし日の先生のお言葉やお姿が走馬灯のように思い出された。

ゼミ室に入ると学生たちがすっと起立し出迎える。別れのホームでは姿が見えなくなるまで静かに礼をして見送る。私のゼミではお馴染みの始まりと終わりの光景だ。お世辞にも今風とは言えない。いや、かなり古臭いと感じる向きもあるだろう。しかし、教わる者は教える者へ敬意を払い、教える者は教わる者の成長を願う。共に教えの中から学びや気づきを得て、高みを目指して進んでいく。そんなあるべきゼミの姿を教えてくださったのは岡村先生その人だった。

「卒業してからが本当の付き合いだ!」・・・先生が生前しばしば口にされたこの言葉が私は好きだ。ずいぶん昔の話であるが、偶然松原団地駅(駅名が改称されるよりずっと前の話である)の駅頭で岡村先生と岡村ゼミの当時のゼミ長と鉢合わせ、流れでそのまま飲みに行ったことがあった。その時の先生とゼミ長の会話から日頃の信頼関係が見て取れ、ゼミとはかくあるものかと得心したことを記憶している。卒業生の結婚披露宴に呼ばれてスピーチを数多く行っておられたと聞くが、それも頷ける話だ。スーツ着用、学年合併、2コマぶっ通し。これらを表面的に捉えれば「きついゼミ」と思われるかもしれない。しかし、それらの1つ1つに先生の意志や価値観が投影されており、みっちり学ぶ中でゼミ生もそれを理解していくのだろう。
ゼミ生との関係を大切にされる先生の源流は若き日の院生時代にあると思う。指導を受けようと庭田範秋先生(慶應義塾大学名誉教授、故人)の自宅を訪れると、勝手口からしか入れてもらえない。手紙を送る際に誤って宛名の敬称を『様』にしようものならば、読まずに捨てられる。そんな師匠から受けた厳しさを、どこか誇らしげに先生は語っておられた。「大学の専任教員への登用が決まったことを報告しにお宅に伺った際、いつものように勝手口へ向かうと、『表に回りなさい』と初めて言われたんだよ。あの時は嬉しかったね。」厳しさの中にも、努力を認め、一人前になったことを讃え喜ぶ師弟愛を感じさせるエピソードである。後年、「もう定年になったので、季節の挨拶の品は送らなくてよい」と師から言われても、先生はお中元・お歳暮を止めることはなかった。
庭田先生と岡村先生のような関係は極端かもしれない。確かに、卒業生の多くは大学で教鞭をとるわけではなく、また、時代の違いもあるだろう(もちろん、私は自宅に勝手口もなければ、敬称が「様」で届いたとしても破り捨てる勇気もない)。しかし、本学の建学の理念「大学は学問を通じての人間形成の場」にもあるように、私たち教員が学生に与えているものは単位や学問的スキルといった平板なものではなく、卒業して社会というグラウンドに散っていった後にもどこかで息づいている“考え方”や“姿勢”なのではなかろうか。そんな無形の財産を育む仕事に先生は誇りを持っておられたのだろう。私も常にそんな先生の姿勢を見倣ってきた。
先生は「腹切り問答*1」で有名な立憲政友会の長老議員、浜田国松の血を引く折り目正しい血筋のお生まれで、それはどことなく気品あるお顔立ちからもうかがい知れる。しかし、お父様は学問だけを授け、あえて子孫に美田を残そうとはされなかった。「生家は優に50人は寝泊まりできるような家だった。でも、死ぬ前に親父が全部自治体に寄付してしまったんだよ。あのとき寄付しなければ、今頃はもっと違っていたんだけれどもな・・・」そう溢してはいたが、先生の中で悔やんでいるようには見受けられなかった。無形の財こそが後の人生を支えるのだということを、お父様は身をもって教えてくださったのかもしれない。

「マーケティングはモーケティングだ!」・・・先生の冗談とも本気ともつかないそんな台詞にしばしば私は困惑したものだ。だが、この言葉の奥には先生の学問に対する考え方が詰まっている。先生は基礎を非常に大切にされる方だった。教員紹介ページにあった「基礎をしっかり語れる人に畏怖を感じる」という一節は今でも印象深い。2010年に先生から謹呈された書籍『読みながら考える 保険論』のはしがきを紐解くと、「君が入門書を書くのは10年も20年も早い」と庭田先生から常々言われてきた旨の記載があった。初期の頃から基礎の重要性と難しさを教わってこられたことがうかがい知れる。しかし、そんな先生のお考えを今時の若い学生たちが理解するには壁が高かったのだろう。先生のゼミの応募者は必ずしも多くはなく、入ゼミしても長続きしない者もいた。マーケティングのように華やかで今日的に見えて、とっつきやすそうに感じる学問が人気を集める状況を忸怩たる思いで眺め、少し皮肉を込めておっしゃっていたように思う。今振り返って考えれば、当時の私は若さや経営学の持つ実学的要素の強さ、応募者数の多さを頼みにして、多少小手先の教育を施していた感も否めず、私のその後の15年余はゼミをはじめとする教育の模索の歴史でもあった。
私は銀行に勤めていた経験があるゆえ尚更感じるのかもしれないが、企業の中にいると、どうしてもその時の世の中でもてはやされているトピックに引っ張られやすい。また、日常業務に忙殺されたり意思決定のスピードが要求されたりと、じっくりと腰を据えて本質を考える時間的暇もない。そこへ来ると、研究者の役割とは、トピックや表層ではなく、根底に流れているものを抉り出すことだろう。企業を素材として取り扱う実学的要素は残しつつも、ゼミ生たちには、「それっぽい正解」で満足せず、徹底的に議論して考え抜くことを次第に伝えるようになっていった。私がこのような境地に至ったのも、岡村先生の基礎を疎かにしない姿勢から少なからず影響を受けてのことだったと思う。ただし、先生には申し訳ないが、マーケティングは決して派手な学問ではない。ゼミ生ならばわかっているはずだが、消費者の心理にしても、企業の体質にしても、考えれば考えるほど深みに嵌ってわからなくなる。とっつきやすいと思って飛び込んでみたものの、こんなはずではなかったと辞める者がいたり、昨今では「きついゼミ」という風説まで流布したりと、現在の有吉ゼミは、まるでかつての岡村ゼミと相似形だ。どうりで晩年、岡村先生から「マーケティングはモーケティング」の名言が聴かれなくなったわけである。

「どうせ私は長くは生きないのだから」・・・これもまた私が反応に困った台詞の1つだった。遺伝性の糖尿病を抱えておられた先生は心のどこかで常に死を意識されていたように思えてならない。隆慶一郎の『一夢庵風流記*2』が好きだったという先生。主人公の前田慶次郎の傾奇者のような生き方に共感を覚えたのだろうか。事の是非はともかくとして、結局最後までタバコをやめることもなく、慶次郎が晩年に記したとされる『無苦庵記』の一節、「生きるまで生きたならば、死ぬるでもあらうかとおもふ」の如く旅立たれてしまった。定年まであと2年、その死を唯々惜しむのみである。合掌。

*1 1937年1月に開催された帝国議会で、三重県の宇治山田市(現在の伊勢市)選出の立憲政友会長老、浜田国松が軍による政治干渉を厳しく糾弾した事件。当時の陸軍大臣であった寺内寿一は「軍を侮辱する発言だ」と非難したが、浜田が「軍を侮辱などしていない。もし侮辱したとされる部分があったのならば、割腹する。もしなかったならば君が割腹せよ」と詰め寄った。この一件は国民や議会に大きな波紋を呼び、結局当時の広田弘毅内閣総辞職の遠因となる。浜田は腹切り問答の2年後に没するが、その後、日本は戦争の道へと突き進むことになる。

*2前田利家の義甥、利益(慶次郎)の生涯を描いた力作。後に原哲夫が漫画化した『花の慶次~雲のかなたに』で有名になったのでご存じの方もいらっしゃるかもしれない。

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